さよならいぬの声
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「何で!! 死んじゃだめよリリ!!――……

 ……――また、あの日の夢を見た。
 あの日、私は愛犬のリリと、朝の日課で散歩をしていたのだ。
 だけどリリの体調が悪そうで、私は早めに家へ帰ろうといつもとは違う道を歩いた。
 それがいけなかった。
 走って交差点を渡った時、横からものすごい勢いでトラックが向かって来た。
 あ、と思った時には、すでにトラックは目の前だった。
 ぶつかる瞬間、リリの声がした。そして衝撃。次に思考を取り戻した時には、私は地面に倒れていた。ぼやけた頭のまま、何で私、生きているんだろうと思って、ふと辺りを見ると――二十メートルほど先の道路にリリが倒れていた。
 リリはぴくりとも動かない。
 そうだ。トラックとぶつかる瞬間。リリが体当たりをして来て、私は突き飛ばされたんだ。だから、私は生きている。
 でも、あそこにいるリリは。
 一目見てわかる。
 リリは、死んでいた。
 道路には赤い血が線になって続いている。錆びた、鉄の臭いがする。
 さっきまで一緒に。一緒に散歩をしていたリリが死んでいる。
 私は立ち上がって、よろよろとした足取りでリリの許へ歩いた。動かないリリは、苦しそうだけど何かをやり遂げたような、そんな表情だった。私は膝をついて、その場でまだ温かみが残ったリリの白い――今は赤い――身体に顔をうずめて、泣くことしかできなかった。


 夢がだんだんと薄れて、私は目を開ける。
「朝……」
 カーテンの隙間から光が洩れている。顔に当たって眩しい。
 パジャマの袖で目をこすると濡れていた。まただ。また夢を見て泣いていたみたいだ。
 頬のほうまで涙がつたっていたので、それも拭って、私は布団から起きあがる。
 ちらっと横を見ると、そこには仏壇があった。
 毎朝、毎晩、毎日目にする仏壇。そこにはリリと、リリの首輪が、置かれている。
「リリ……」
 あの日からたったの一度も線香をあげていない。ううん、あげたくないだけ。ただの私のわがままだ。
「まだ、さよならしたくないよ……」
 未練がましくしているからなのか、毎日のように事故の夢を見る。
 悪夢だ。
 赤く染まったリリの姿を見るのも、血の臭いも、全部嫌だ。あれ以来、交差点に近づくことにさえ抵抗を覚えるようになった。近づくと、リリの死をはっきりと告げられているようで……つらい。
 時計を見ると、六時ちょうどだった。リリと散歩に行く時間なのに。こんな時間に起きても、今は何もすることがない。
 あの日の夢を見て泣いて、起きてしまう時間に滅入って、仕事に行くのにどうしても通ってしまう交差点がつらくて。こんなことならいっそ、外に出ないほうがいい。つらいから、もう外には出たくない。
「今日は休みだし、まだ寝よう……」
 現実から目を逸らすように、私は再びまどろみの中に沈んだ。

     ○ ○ ○

 目を覚ますと、私は床に寝転がっていた。
「……?」
 ここは……寝室の床だ。
 私、ベッドに寝ていたはずなのに、何で床に寝ているんだろう。もしかしてベッドから落ちたのか。いや、そんなことは今まで一回もなかった。そんなばかなと思い、立ち上がる、と違和感があった。
 視界が低い。
 目線の高さがベッドの高さとほとんど変わらないくらいだった。まるで世界が違って見える。明らかな違和感。いったい何が自分に起きたのか、全くわからない。周りを見回すけど、やはりここは私の家の寝室だ。いつも使うベッドはもちろん、今は見上げる形になっているけど、見慣れた仏壇だってある。
 しばらくぼーっとして、何気なく、鏡を見た。
 人がおさまるほどの縦に長い鏡――に何かが映っていることに私は気がついた。
犬≠ェ映っていた。
「あれ……? これ、リリ?」
 それはどこをどう見ても、リリだった。
 すらっとしてるけどたくましい大きな真っ白い身体。
 ピンクのポイントが入った赤い首輪――はなぜか色が落ちてモノクロになっている。
 そして鈴。くりくりした瞳がとてもかわいらしい、私自慢の愛犬。
 夢?
 そう思うが、あれ以来見る夢で、事故の日以外のものはなかった。それに、これは夢にしてはリアルだ。ちゃんと自分で自分の身体を動かせる。ほら、現にこうやって――
 カツ
 鏡に映るリリに触れようとして、指先が当たった。反射的に手を引いて――
「――へ?」
 手が、どう見ても犬のそれだった。
 なんだ。
 なんだなんだ?
 考えを巡らせるが、どうしてもわからない。
 さっきからどうもおかしい。目線はやけに低いし、手は何でか白い毛でふさふさで、目の前の鏡にはリリが映ってるし。
 映ってるし――
 姿が紛れもなく犬だった。ためしに身体を動かすと、鏡のリリは私と同じ動きをする。改めて手を見ると、肉球的なものの存在が確認できる。お尻らへんに、謎の感覚がある。
――尻尾……。
――ああ。
「私――リリになってる!?」
 身体も犬臭かった。
 そうか……私は犬か。
 成す術もなく放心していると、突然後ろでガチャ、とドアが開く音がして、はっと振り返る。
「リリー、散歩行くよー」
 これは夢なのだろうか? もし夢じゃないならきっとここは天国だ。もしくは私の知らないどこか別の世界なんだ。
 だって、そこに立っていたのは、私だったから。

     ○ ○ ○


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