「何で!! 死んじゃだめよリリ!!―――…
…―――また、あの日の夢を見た。
あの日、私は愛犬のリリと朝の日課で散歩をしていたのだ。だけどリリの体調が悪そうで、早めに家へ帰ろうと、いつもとは違う道を歩いた。
それがいけなかった。
走って交差点を渡ると、横からトラックがものすごい勢いで向かって来た。
あっ、と思ったときにはすでにトラックが目の前だった。
リリが、私にぶつかる。次に思考を取り戻した時には、リリはトラックに撥ね飛ばされて、二十メートルほど先に倒れていた。
一目見てわかった。
リリは、死んでいた。
道路には赤が広がっていて、血生臭くなっている。
さっきまで一緒に……一緒に散歩をしていたリリが死んでいる。私はよろよろとおぼつかない足取りでリリの許へ歩き、その場で血塗れた亡骸に埋もれて、泣くことしかできなかった。
夢がだんだんと薄れて、私は目を開ける。
「朝か……」
カーテンの隙間から光が洩れている。顔に当たって眩しい。
私は目をこすって布団から起き上がった。
視界の正面には仏壇がある。毎朝、毎晩、毎日目にする仏壇。そこはリリが眠っている場所でもあった。
「……」
まだ一回も線香をあげていない。ううん、あげたくないだけ。ただの私のエゴだ。
「まだ、さよならしたくないよ……」
未練がましくしているからなのか、毎日のようにあの日の事故の夢を見る。
悪夢だ。
それも、決まって赤い色を、血の匂いを思い出す。あれ以来、交差点に近づくことにさえ抵抗感を覚えるようになった。近づくと、リリが死んでいることをはっきりと告げられているようで……つらい。
「今日は休みだし、もう一度寝よう……」
そうして私は、ふたたび微睡みの中に沈んだ。
○ ○ ○
目を覚ますと、やけに視界が低かった。
「……?」
私が立っている場所は、寝室だ。つと見回すが、やはりそうだ。
仏壇が目先にあるけど、ちょうど下の物入れを見ている。視界が低いせいか、世界が違って見える。だけど視界が低い理由がわからない。
しばらくぼわーっとして、何気なく、光が洩れている窓ガラスに近づく。
窓から外の景色を見る。ふと、窓に何かが映っていることに気づいた。
犬≠ェ映っていた。
「あれ……? これ、リリ?」
見紛うはずがなく、リリだった。
すらっとしてるけどたくましい真っ白い身体。ピンクのポイントが入った赤い首輪、それから鈴。くりくりした瞳がとてもかわいらしい、私自慢の愛犬だ。
窓に映るリリに触れようとして、カツ。指先が当たった。反射的に手を引いて――
「――へ?」
私の手がどう見ても犬のそれだった。
なんだ。
なんだなんだ?
考えを巡らせるが、どうしてもわからない。
どうもさっきからおかしい。視界は低いし、手は白い毛でふさふさで目の前の窓にはリリが映ってるし。
映ってるし――
姿が紛れもない犬だった。ためしに顔を触ると、窓ガラスのリリは同じ動きをする。それにふさふさしていて、改めて手を見ると、肉球的なものが確認できる。お尻らへんに、謎の感覚がある。
――尻尾……。
――ああ。
「私、リリになってる」
身体から少し土の匂いが感じられた。そうか、私は犬か。
成す術もなく放心していると、突然後ろでガチャっとドアが開く音がして、はっと振り返る。
「リリー、散歩行くよー」
ここは天国なのだろうか? そうか、天国だ。きっとそうだ。私はリリの夢を見てるのか……。
だって、そこに立っていたのは、私だったから。
○ ○ ○
夢は醒めなかった。
私は私に引っ張られて、今、散歩をさせられている。
――こ、これは何の羞恥プレイだ?
私は犬で、ぺたぺたと地面を四つん這いで歩いているのだ。首には当然のように首輪が繋がれていて、歩く度にチリン、と鈴が小気味よく音を鳴らしてくれる。何度か首をグイッとやられてオエッとくる。
私は幾度もわんわんと抵抗の声を上げたが、人間の私はそんなのどこ吹く風で、とろいのかにぶいのか「おーよしよし」と犬バカの様相を呈していた。
必死の声は届かなかった。
「リリちゃん今日は元気ないでちゅねー。どうしたでちゅかー?」
人間の私が私に話しかけてくるが、おいおい、普段そんな猫撫で声しないだろ、やめろ恥ずかしい!
羞恥プレイどころか、自身の親バカもとい犬バカっぷりに泣けるというオマケも付いていた。犬バカの自覚は多少はあったけど、いざこう見せられると、恥ずかしすぎる。
そのまま死ねそうだ。夢なら早く覚めて……。
「むー、今日はリリちゃん体調悪いみたいだし、散歩早めに終わろうか。あっちに行こう」
普段の散歩コースから外れた。時間がない時は、この道でまがる。商店街の交差点に真っ直ぐ行けて、短く町内を一周できるお手軽なコースだ。
そうして少し歩いて、私はあることに気づく。あっちに行こう?
「あ」
この先。私たちが向かっている方向には、リリが死んだ交差点がある。
「え。……ちょっとこれ」
私はとたんに強い既視感に苛まれ、頭に鈍痛を覚える。
――これ、事故の日の再現だ!
信号が見えてきた。今は赤。私たちが渡る頃には、ちょうど青になる。そして横からトラックが来て、轢かれる。しかも轢かれるのは、犬の私自身だ。
急激に意識があの交差点を拒む。なのに、なぜだか身体の動きが、歩みが止まらない。首を引かれて一歩一歩、確実にあの場所に近づいて行く。
――だめ、あそこは行っちゃだめ! 私はもう二度と行きたくない! だから、だから止まって。行きたくない行きたくない行きたくない!!
こんなに大きな声で叫ぶのに、私には届いていない。反対の信号が点滅し始めている。
「リリ、早く帰って、朝ごはん食べようね。そしたらリリも元気になるよねー」
もう交差点はすぐそこだった。身体が言うことを聞かない。私の意識は身体に抵抗を続けるけど、全然動かない。
信号が青に変わった。人間の私が信号が変わったのを見て走る。私も引っ張られて駆ける。私たちは交差点をふたりで渡る。横からからトラックが突進して来て――
その時、身体が急に軽くなった気がした。
すべての思考がひとつに凝縮されて身体が爆発するかのように動く。私はがむしゃらに駆ける!
「ダメ――――ッ!!」
私は叫び声をあげながら、人間の私に体当たりをした。
次の瞬間、強い衝撃が意識を吹き飛ばした。
○ ○ ○
「何で!! 死んじゃだめよリリ!!」
気がつくと、目の前で私が泣いていた。足許にはリリがいて、道路は血溜まりができている。血の匂いがする。
私自身の意識は幽体離脱と言うのか、リリの身体から少し浮いているところにあった。泣いてる私は、周りには人が集まっているのに、そんなの気にしないでぐちゃぐちゃな顔していて。
「――ちゃん」
私の名前を呼ぶ小さな声が後ろから聞こえた。意識だけで振り向くと、そこには私の愛犬の、リリがいた。
「リリ……」
「今日でもう四十九日だから、――ちゃんとは、もうさよならだね。明日から僕の夢も見なくなるし、自分を責めるのも、全部終わりだよ……」
リリの言葉が、不思議と胸に響いてきた。幼い男の子のような声だった。身体に浸透してきて、とても心地が良い。
「僕は、――ちゃんを助けれて、すごくうれしいよ。だから、明日からもがんばって、僕の分もちゃんと生きてね……」
私は何を言えばいいのか迷った。何かを言えばいいんだろうけど、いろんなことが突然すぎて、頭がぐるぐるしていて整理ができない。
ただ、浮かんだ気持ちがあった。
私は、私は今までリリに何をしてあげれて、これからは何ができるのだろうか?
「じゃあ、またね」
リリが私に背を向ける。行ってしまう。もう、さよならしなきゃいけない。何か、何か言うことは――
「リリ!」
気づいたら叫んでた。そうとしか言えない。リリが振り向く。私の口から、自然と言葉がこぼれる。
「毎日、毎日お線香上げるから!! あとちゃんとリリの分生きて、それから、それから、リリのこと絶対忘れない! 助けてくれてありがとう……じゃあ、じゃあ……」
それ以上の言葉は口から出なかった。リリは笑って、そして消えた。
「!! ここは……」
私は自分の家のベッドの上にいた。身体中が汗だくで、袖で額を拭う。
「夢、か……」
本当に夢だったのだろうか。私はそんなことを思いつつ、すくとベッドから起き上がる。
チリン。
その時足に何かが触れた。
「あれ? ……これ、リリの首輪」
ピンクのポイントが入った、赤い首輪。ちゃんと仏壇に置いておいたはずなのに……。
私は立ち上がって、仏壇にかけよった。そっと仏壇の端に、首輪をそなえる。それから、長い長いお祈りをした。
「……うん、元気でた。また、初心にかえって頑張ろう。じゃあね、リリ」
そうして私は、リリにさよならをした。
文章が2009年12月のもの。