◇「ともしびの行方」
夕野優貴はぽうっと灯る弱々しい光を見つけた。
その光は、よく見ると体育座りをした子供の影のようだった。公園の隅の一角にうずまって灯っていた。
「だれ? そこにいるの?」
優貴は訊いた。すると、光とも影とも言えぬ灯りが、びくりと動いた。次にはあたりに落ちていた寂しげな影がわっと輝いて、ふわふわとした光が、こっちを、見た。
――「視える、の?」
ひどく震えた声だった。
幼い。まだまだ小さな、少年のものではないかと思える。
光はぼんやりと霞んでいる。まだ実体ははっきりとはしていなかったが、その声は明らかに自分よりも齢が下のものの声のように思う。
優貴はその声を聞いて、「視えるよ」と優しい口調で言葉を返した。背負っていたランドセルを地面に置いて、光の、声がするほうへと駆け寄った。
光は、男の子だった。
しゃがんでいるその子と同じぐらいの顔の高さになるよう、優貴はスカートを気にしながら座り込む。
「泣いてるの? 大丈夫?」
男の子は、瞳を血で染めるように赤くして、涙を流していた。
見た感じ、小学生高学年の優貴よりも一回りくらい小さい子だろうか。
「ボク、ボク――」
「うん。解るよ。大丈夫だよ。怖いものはないよ」優貴はびくびくと泣く男の子の背中を擦って、「わたしは、ここにいるよ。視えるよ」と言った。
それは、慈しみだった。
優貴が言うと、男の子は何かが決壊したようにボロボロと泣きじゃくって、優貴に抱きついて来た。かさりと乾燥した風が吹いて、その子を包んでいた陰りは薄く光を眩めた。
それからしばらく、優貴は男の子が泣き止むまで待った。
泣き止むと、「男の子だね。強いぞ」と言って、その子をなぐさめた。
「きみ、名前は?」
「……ゆーた。瀬能ゆーた」
「ゆーたくんね」
男の子を包んでいた光は、仄かなものになっていた。涙でぐしゃぐしゃにしていたさっきより、幾分も話せる。それを確認した優貴は、落ち着いて、ふう、と一息深呼吸をした。
――うん、大丈夫。わたしはやれる。
優貴はそう自分に言い聞かせる。
「どうしてここにいたの?」
優貴は訊いた。あまり、良い返事が期待できるとは思わなかったが。
「ずっと待ってる……」
と男の子は返事をした。
「何を?」
「……わからない。でも、大切なもの」
「そう」
優貴は、その言葉を聞いて、表情を安堵させひとつ返事をした。
「うん」
男の子も、それに返す。
「じゃあ、わたしも一緒に待ってあげるね」
優貴は男の子の横にちょこんと座り直す。
「え。そんなの悪いよ」
「だって、あなたを視ることができるの、わたしだけじゃない。一人だと寂しいよ。いつも一緒にいてあげるって訳にはいかないけど、でも二人なら寂しくない。一人のときより、ずっとずっと温かい」
そう言って、優貴は男の子を抱きしめた。男の子からはどことなく土の匂いがして、それから水っぽさを感じた。
男の子を包む光は、ふわ、と暖かく灯った。
○ ○ ○
翌日。
優貴は学校帰りに駅前のゲソ屋へ寄ってたこ焼きを買い、その足で男の子の許へと歩いた。
公園に着くと、相変わらず隅のほうで体育座りをしている男の子がいて、優貴は彼に近付くと、
「たこ焼き、食べる?」
と言った。
秋の空気に、薬味多めのたこ焼きの匂い。焦げた、香ばしいソースの匂いが混じった。
その匂いに気付くと、男の子は優貴が手に持つビニール袋を興味深そうに、また思案げにまじまじと見つめた。
「あら。たこ焼きを見るのは初めて?」
「うんっ。ううん、いや、あるかも。でも、ないっ」
「どっちなのよ」
優貴はくすくす笑いながら、ゲソ屋印のビニール袋から6コ入りパックに詰められたたこ焼きを取り出す。男の子はいかにも興味ありげといった呈で、綺羅々々と表情を明るくさせると、背負っている光も輝いた。あたりが暖かくなるようだった。
「わたしが触っているものは、きっと食べられるわよ。ほら……」
優貴はパックのなかからひとつ、たこ焼きを爪楊枝に刺して、男の子の前へとやった。
少し迷うような、また申し訳ないような顔をするた男の子だったが、やがてゆっくりと、もどかしいようにたこ焼きをひとつ口へと含む。ほくほくとした温かさに驚きながら口を開閉させ、すると熱さに我慢できなくなったのか食感を楽しむでもなく飲み込む。ぱあっと表情を明るくさせた。
「おいしいっ!」
優貴はよかった、と一息つく。思わず相好が崩れた。
○ ○ ○
翌日。
そのときの男の子の表情は暗かった。影が差しているようだった。
それを見て、優貴は心配そうに声をかける。
「……どうしたの?」
そう訊く。優貴は、男の子の小さな感情の動きものがなさいように身構える。
「……あのね」男の子はちょっと不安な顔をしてから、ゆっくりと口を開く。「ボクね、もうずいぶん待ってるんだけど。何を待ってるのか、いつから待ってるのか、全然わからないの」
「……そう」
「あっ。で、でもね。いまはおねーちゃんがいてくれるから、ボクは前より温かくて幸せ、だよ? 嘘じゃ、ないよ?」
その言葉を聞いて優貴は、呆気に取られてしまう。こっちはいかにも真剣だったのに、男の子が意外にも明るくふるまったからである。でも、不思議におもしろいと思った。
――おねーちゃん、か……。
どうにも口の端が上擦ってしまうので、また買ってきたたこ焼きを広げつつ、
「たこ焼き、食べる?」
と優貴は言った。
○ ○ ○
また翌日。
この日は雨が降っていた。
優貴は、学校が終わると、ぱしゃぱしゃと音を立てて、赤い傘を差して走った。
今日は、ゲソ屋のたこ焼きを用意できそうにはなかった。だけど、こういうときにこそ、傍にいてあげなきゃと思う。公園へと走る。
――だけど。
公園に着くと、地面には多くの水たまり。雨粒が波紋を広げていた。公園の中央に――男の子は立ち尽くしていた。
――口をぱくぱくさせて、茫然としているばかりだった。
その姿を見た刹那――優貴は傘を放り投げて、男の子の許へと駆けた。
赤い傘は、ばしゃり、と音を広げて、ぬかるんだ地面に落ちた。
「どうしたの? 大丈夫?!」
ざあ、と降りしきる雨のなか、優貴は、男の子の肩を持って、――その暗く、泥のなかに沈んでいるかのような顔――揺さぶった。
もう、終わりだと悟っているのに。
「おねー、ちゃん……」
雨音のなか、やけに鮮明に男の子の声は聞こえた。まるでこの世のものではないようだった。世界に木霊した。
あたりを、暗い、陰った光が包んでいた。
「ボク…………雨の日に……」
○ ○ ○
瀬能ゆーたは事故で死んだ。
ざあっつ、と地面を打ち付ける雨。
跳ねる泥。
流れていく血。赤、赤、赤。
――熱が身体から流れ出す感覚――身体から消えていく感覚――を覚えている。
だから、瀬能ゆーたは幽霊だ。
○ ○ ○
でも、そんなことは、きっとずっと前からわかっていたんじゃないかと思う。
ただ、誰かに気付いて欲しかった。この呪縛から救い出してくれる誰かが現れるのを、ただ待っていただけなのかも知れない。
それとも。
大切な何かを、やはり思い出したかったのでは、と思う。
「でも、ボク。思い出しちゃった。ずっと暗いところにいたから、忘れてたんだね。どうしてだろう……思い出せなかった。ボク、死んじゃってたんだ」
「……ごめんなさい」
男の子、瀬能ゆーたの光は、その形を、在り様を変えていた。光は、輝きを暗く、薄くさせていた。
「おねーちゃんが謝ることはないよ……」
「でも、わたしなにもできなかった……」
優貴は雨が降ってくる空を見た。頬に雨粒が落ち、流れた。幾つも幾つも、頬から喉に伝っては地面に零れる。
「まだわたし、ゆーたくんの大切なものを、一緒に探せてあげれてない」
「十分だよ……たのしかった」
ゆーたは、ふらふらとして、その薄い身体で優貴に抱きついた。
ゆーたの匂いは、どことなく、土というよりかは泥っぽくて、泥というよりも水っぽくて、でも水っぽいのでもなくて――水で薄められた血のようだった。
「たこ焼き、おいしかった。じゃあね、おねーちゃん」
バイバイ
蝋燭のような弱い灯は、ゆっくりと、もどかしくて、途絶えるように消えた。
いつの間にか、雲から落ちる雨の雫は、その数を減らしていて、曇天の雲間から、幽かに光が零れていた。
○ ○ ○
翌月。
公園の隅の一角には花が飾られていた。
そんな贅沢なものではないけれど、少しでも手向けになればと思う。
「探すの、たいへんだったよ」
白いカーネーションの花弁が、風にそよがれて空に舞った。
遠くではもう雲が沈もうとしていて、紅霞がどこまでも広がっていた。
〆
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